「善にさとく悪には疎(うと)く」 08.05.18
ローマ16:17〜23
ペンテコステ以降、エルサレムだけでなく各地に教会が誕生して
いきました。当時の世界の中心であったローマにも教会が誕生します。
教会には、ユダヤ人だけでなく異邦人も集っていました。
奴隷と自由人、貧しい者と豊かな者が共に集っていました。
通常は一緒にいないような人たちが、主イエスに結びついた一つの
家族のように集って、共に礼拝をしていました。主イエスによって
救われた者同士が、神に愛されている者同士が、互いに配慮をしあう
美しい関係が教会には生まれました。(使徒言行録2章43節以下)
しかし、教会は、欠点を抱え、誘惑に出会うとすぐに揺らいでしまう、
弱さを抱えた人間の集りです。エデンの園で蛇の誘惑に負けたアダムと
エバの末裔です。それをご存知の神さまは、聖書の御言葉を通して
語りかけてきます。「あなたがたの学んだ教えに反して、不和や
つまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の
腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって
純朴な人々の心を欺いているのです。」(17-18節)
「腹」は、私達の持っている欲望です。エデンの園で誘惑する蛇も、
欲望をくすぐりました。現代も欲望をくすぐることの満ちている世界です。
競争社会も経済至上主義も、私たちを「自分を一番に」との思いに
駆り立てます。そして、神さまを愛し、他の人を愛するという、人間に
とってなくてならない気持ちが曇らされていきます。どうすればよいの
でしょうか。
第一に、十字架の主イエスのお姿に目を注ぐのです。自分の腹に
仕える姿と対極にある主イエスに目を注ぐ時に、自分の腹に縛られた
生き方から解き放たれていきます。第二に、天に国籍を持っている
ことを知ることです。腹に仕えるものは、この世のことしか考えないと
言われます。
神の民とされ、天に向かって歩んでいることを見失うと、欲望に
心を奪われます。主の十字架と復活に目を注ぎながら歩むのが
神の民です。